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間違っている

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» 死を決めるのは誰か 


これから東京や大阪、全国各地で湯川遙菜氏・後藤健二氏の追悼集会が行われるという。

ちょっと待ってほしい。二人は死んだのか?

確かに、イスラム国と名乗るネット上の何者かによって、斬首された遺体を写したと思われる画像が、湯川氏・後藤氏それぞれについてアップロードされた。

しかし誰もその遺体を確認していない、実体の「イスラム国のメンバー」に直接あたって確認した者もいない。

―本当に、二人は死んだのか?

「死んだに決まっているじゃないか。首が切り離された遺体の画像が出たんだぞ」

―それが真実その人の遺体だと断定する理由は?

「複数の政府機関が、動画の信憑性が高いと言っている」

―それはつまり、結局その遺体を誰も直接確認していないという事だ。

もちろん、殺害された「蓋然性」は高い。
両氏は長らく(依然として)行方不明である事は明らかだし、
<「イスラム国」と名乗るネット上の何者か>が本当にイスラム国という政治主体なら、
殺害せずにおく理由はないだろう。

しかし、私は問いたい。
そもそも、ある人が死んだか死んでいないかを決めるのは誰なのか?

政府が決めていいのか?
マスコミが決めていいのか?
私たち傍観者(非当事者、第三者)が決めていいのか?

私はそれは断固としてノーだと思う。
一人の人間の死は、第三者が決定権を持つべきものではない。
いわんや、「第三者のみが寄り集まって同調し、死を既定事項にする」などは、
第三者の「おごり」以外の何ものでもない。

ある人が死んだか死んでいないかということは
(特に、遺体などのはっきりとしたしるしがない場合なら)
残された近しい人が決めるべき問題ではないのか?

戦時中、出征した家族の帰りを待つ家に戦死が報され、
木でできた箱が届いて、遺骨が入っているのかと思い中をあけてみたら
「石」が入っているだけだったという話がある。

第三者が「死を決める」というのは、こういう事だ。

この「石」は今、件の動画、政府首脳・高官の発表、ネット上に氾濫する追悼の言葉になっている。
その「有無を言わさぬ決定」というものが、どれだけ人間を馬鹿にし、軽んじ、
その人自身をその人自身でないものに従属させてしまうのかという事を
もう一度よく考えた方がいい。

ゆえに、私は、両氏が死んだとは言わない。「分からない」と言う。
論理的にも倫理的にも、それ以上の事は言えない。

だから、私は、追悼しない。

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» 夢を見る場所 

先日大阪で、香港のDIYライブハウスHidden Agendaを撮った映画
"HIDDEN AGENDA The Movie"を観てきた。

HiddenAgenda Osaka


予告編



大阪上映会の告知
http://fugashi.org/?p=105

自分は松本哉氏のブログでこの映画を知った。
氏によれば、このライブハウスは香港のアンダーグラウンド音楽シーンの最重要拠点だという。

土地代の高い香港では、メジャーなライブハウス以外で、
自分達で勝手に作り上げたような場所で
音楽をやれるところというのは、大変に限られているらしい。
そんな中でこの Hidden Agenda は
何回かの引っ越しの後、工業区域の建物を借りて改装することで
インディーズ・ミュージシャンたちの演奏の場を作ってきていた。

が、工業区域で娯楽行為をすることは法令に反するとの理由で
Hidden Agendaは行政に立ち退きを要求され
警察官が様々の理由をつけてたびたび立ち入る、という事態に遭ってしまう。

本映画は、Hidden Agendaが
自分達の手で場所を作り上げる過程を示しながら
その事態に対する抗議と意志を表明した映画だ。

映画の作製者は Hidden Agenda自身で、
フィルムには
ライブハウスを自分達の手で作り、日々保守・調整する姿、立ち退きをせまる行政に対する抗議デモ、
そして遂に引っ越しを行うことになり、そのカンパを募集するライブ・パーティーを開催するまでの過程が収められている。


上映会のアフタートークでは
クラブ弾圧とそれに対する法改正運動などの話があり興味深かったが、
多分この映画の本質は、

夜ごとの夢を、誰と一緒に、どう見るか、その時間は誰のものなのか

という問いかけだ。
法の事は二次的な事だ。

映画の最後での、行政が再開発計画の一環としてHidden Agendaにアート枠での参加を要請し、
Hidden Agendaはそれを拒否した、
という所について、アフタートークで疑問の声があった。

私はこういった場所作りをしたこともなければ
行政や公権力とこのように組み合ったこともないので
Hidden Agendaや、他の多くの独立運営の場所が、それにどう応答すべきかについて
一般的な答えを持たない。

しかし、考えなければならないのは、
「自分達の手でやりたい音楽と場所を作り上げている人間たちと
法や行政とで、どちらに『実』があるのか」という事だ。

今回クラブ弾圧の話も聞いていて思った事だが、
明らかに法・行政の側には「実」はない。

なぜ工業エリアでライブハウスをやってはいけないのか、
なぜ今の時期に突然、風営法のダンス規制の適用を厳格化する必要があるのか、

誰も答えられない。恐らく行政の人間でさえそうなのだ。

Hidden Agendaの人が、立ち退き請求を提示する当局の人にこう聞く。
「工業エリアでは物を生産しない者は立ち退かなくてはいけないというが
我々は音楽を生産している。それではダメなのか」
「娯楽行為と言うがその定義は何なのか」
明確な答えは返ってこない。

このやりとりにこう思う人もあるかも知れない。
「それは屁理屈だ。法に書かれていることに抵触すると判断された以上、それはしてはいけないのだ」と。
しかし、そもそもを考えて欲しい。
そもそもなぜ、「音楽をしてはいけない場所がある」のか?
なぜ、「それに従わなければならない」のか?
なぜ、「(従わずに)その法律の変更を考える」事が発想されないのか?


風営法のダンス規制については、もっと不可思議だ。
夜、定時刻以降は、店の経営者は客にダンスを踊らせてはいけない。
これは数十年前にできた法律の条文だ。
しかしこの半ば実効性を失っていた条文を根拠に、なぜ今クラブの大量摘発が起こっているのか。
アフタートークで登場した、この問題の当事者である金光正年氏は、
なぜなのか、はっきりとした事は分からない、という旨の発言をされていた。

「踊らせる」という事の意味も状況も全く変わっている現在、
数十年前の条文を守る意義も、
それを根拠にクラブの規制・大量摘発が起こる理由も、
誰も分からない。

法律は意志を持たない。行政は「なぜ」に答えない。
なぜなら法律は規則・文字に過ぎず
行政はその「遂行」を主目的とする装置に過ぎないからだ。

「水槽のポンプ」の設計図じたいに意志はなく
水を濾過するポンプに意志や疑問など無いのと同様のことだ。

それが法であり行政なのだ。


問題は、そんな「実」のないオバケにあなたは付き合うんですか、という話だ。


Hidden Agendaの映画に写し出されるのは
抗議やデモだけではない。
多くのミュージシャンと、夜ごとのライブと、そこに集まる人々の
踊り、騒ぎ、熱狂し、あるいは出会い、あるいは酔い、あるいは語り合い、
あるいは陶然と夢を見る、
その時間。その空気。
そしてその場所を続けていく、日々の営みと意志。

はしゃぎ浮かれ騒ぐことがそんなに大事かと、問うひとには
こう問いたい。
あなたは人と出会った場所・語り合った場所・一緒に夢を見た場所を、
いとしいと思ったことはないのですかと。
騒ぐことは本質ではない。
人と居る歓び、「そこ」にいる楽しさ。
それを全く感じたことがない人はいないはずだ。
これこそが私たちにとっての「実」ではないのか。


映画のエンドロールには、
香港の朝焼けとおもわれる
うすく、日の光を浴びて光るビル群の映像が写し出される。
路上にはまだ、朝が来たことを知らぬ街路灯が瞬いている。

興奮と疲労と満足と、きのうの夢は、朝日の中で溶けていくだろう。
そこにいたる一瞬の時間、その時間の夢を誰かと共有すること。
この時間は誰の物なのか。
それはまったく、奪われがたい、私たちの時間なのである。



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» 野次馬根性 

せっかくまとめて呟いたので、ブログにまとめてみる。
きのう今日の、アノニマスによる日本政府サイトなどへの攻撃事件についての、野次馬ツイート。



















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テーマ: Diary - ジャンル: 日記

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» 黒ヘル脱糞闘争 

中川文人氏のTwitterより

「黒ヘル全学連の脱糞闘争で見落としてはならないのは『コストがかからない』という点である。サリンを製造するにはプラントが必要だが、糞はそうではない。すべては人体に備わっている。専門知識も技術も不要だ。まさに、神の与えたもうた抵抗の手段と言えるだろう、と同志ジョー・マジャールは語った。」

http://twitter.com/#!/NakagawaFumito/status/148331965723054081

「黒ヘル全学連の脱糞闘争の重要な点は、どんなに厳重なボディーチェックをしても防げないということである。そういう意味からいうと、この戦いはセキュリティ国家の根幹を揺るがすものであり、また、現代文明に対する根源的な反逆の方向性を示すものといえる、と同志ジョー・マジャールは語っていた。」

http://twitter.com/#!/NakagawaFumito/status/148290743914598400


新年早々吹いた。

昔石垣カフェの「キャンパスアナーキーを考える」というイベントで
学生運動時代の京大で学長室(?)に脱糞してやった人物がいた
という話をしているおじさんがいたが、それと何か関係あるのだろうか。


本年もよろしくお願い申し上げます。

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» もう一つの世界 

直接対話があること
場を必要とすること
広くおおやけに開かれていること

偶発性とそれに誘発される創意が空気に満ちること

場が持続しないかもしれないという不安が空気に緊張感を与えること

発言すること、踊ること、歌うこと、見知らぬ人と話すことにかんして
受け容れられないかもしれないという不安があること、あらゆる躊躇があること
誰も保証しない、どこにも保証がない緊張感があること


風とおしがよいこと、何が起こるのだろうという不安とわくわく感が
ひとりでに湧き上がってしまうこと
祭りの非日常性がどこかで続いているような浮わつきがあること
それでいてだらだらとした日常を内包すること


私はこの感覚を「石垣カフェ」で体験した。
それは割と私の人生にとって大きなことだったと思っている。
なぜならそれは全く新しい事態・視点の発見だったからだ。
似た空気は、小さくは熊野や吉田や女子寮などの寮やらサークル部室やらにも
漂っていたとは思う。大学には大なり小なりよくあるものだ。
しかし石垣の上のやぐらには圧倒的な「開放(あけっぱなし)」と「風とおしのよさ」があった。

一度カフェに入店(?)したとき、石垣の下から
「京大短歌会なんですがイベントやっても良いですかー?」という声が聞こえてきた
店番の人も「どうぞー」と承諾。関係者ではない私もなぜか加わって
「歌集の読み合わせをする会」が石垣上に発生してしまった。
そういうところだった。


素人の乱にも似たにおいを感じる。感覚に過ぎないのですが。
松本哉氏ともうひとりの中心人物である
芸術家(?分類不能)山下陽光氏を、
外山恒一は素人の乱の松本氏ではないもうひとつの起源として指摘しているのだが、
山下氏の素人の乱以前のスタイルに
「なんか高円寺あたりにたむろしてパンクスと一緒に
路上に座り込んで道行く人に声かけまくる」というのがあったのが面白い。
http://ameblo.jp/toyamakoichi/entry-10432532071.html
(外山氏による素人の乱関係者へのインタビュー。
全書き起こしなので関係者しかわからなそうな些末な話も多い)


そして仄聞(限られたソースから…)する情報や
下記動画などをみると"Occupy Wall Street"も
似たものを持っていると直感する。

Occupy Wall Streetに特徴的なのは
"I care about you"という互いの認知・互いを重んじる姿勢であるように見える。
http://illcomm.exblog.jp/14739646/
かれらは
二者間の直接対話を、大多数で行う
(それは、物理的に制約のある「とある空間」で行われる)
(制約があるというのは、場所の広さが人数を決め、
その場への距離が参加範囲を決めるような制限、
つまりは集団を二者関係の総和以上のものにしない制約のことだ)
方法を作り出すことを重視し、それに精力を費やしているようだ。


動画中の、
「このムーブメントは、抗議ではなく何かを作り出すこと
何かを誰かに要求するのではなく、それを自分たちで実現すること」
という部分は素人の乱の発想と全く同じだ。


閑話休題。
動画中の、話者に対する聴衆の「手話参加」はすごく面白い。すごく日常的に使いたい。

空間に限定されていつつ、最大限の情報(意見)交通を許しつつ、
一対多でありながら目を見交わすことで一対一の相互作用でもあり得る、面白いツールだ。
これはかれらの「人間拡声器」(警察?に拡声器を使うことを禁止されたので話者の発言を聴衆が繰り返して後ろの聴衆に伝えていく発言伝達&拡散方法)
にも言えることだろう。


何か知ったげに書いたけれど、OWSの目指す方向性(格差の是正?)も最近の動向も
そもそもこのムーブメントの端緒や経緯、問題提起も
実は何も知らないことはここだけの秘密。
何か世界的ムーブメントのように言われたりするけれど、
新興国で同様の動きを聞かないのは、
この運動がそれほどの普遍性を持っていないということなのだろうか。









(いずれもイルコモンズ氏のブログ
http://illcomm.exblog.jp/
で知った動画です…(汗)OWSの情報源も主にそちら(汗))



論証や事実確認の全くない感覚的な文章を書いてしまいました。
衝動日記、お目汚し失礼いたしました(_ _;)

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